スタッフブログ

原水爆禁止2015世界大会(広島)で平和をおもう

 

広島から戻ってきました。
昨年に引き続き参加させていただき、ありがとうございました。
今年は戦後70年ということで開催地も広島・長崎・広島
~長崎の3パターンありました。私は広島へ行かせていただ
きました。広島に着くと、まず荷物を預けにホテルまで路面
電車に乗りました。現在の広島は整備され70年前を想像
することは難しいのですが、それでも乗車中に被爆された方
のことを考えます。再度、路面電車で「原水爆禁止世界
大会」に参加するために広島県立総合体育館へ行きました。
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宝田明さんのスピーチ

 

 

 

24昨年参加させていただき「平和」の意識が変わり今年は2
回目。目的は・・・「なるべく多くの被爆体験を聞く」と「とう
ろう流し」でした。毎日プログラムを眺め、体験談が聞ける
会場へ足を運びました。体験談は様々で 今を生きている私
達ひとりひとりの人生があるように被爆された方ひとりひとりの体
験があり、その後の経験もひとりひとり違うこともよく分かりまし
た。そして、被爆したことで
・平和を訴えることでヘイトレターが届くようになった
・ガン(2つ)、心臓病、再生不良貧血で週2回の点
滴治療が生きるためには不可欠
・建物疎開の担当日程を“じゃんけん”で決め失った友人
に対しての罪悪感が今でも拭えない
・自分のみならず我子にも血液疾患を背負わせた罪悪感
・いじめや偏見を受け続け自殺未遂。人並みの生活を
送りたかった
・祖国での後遺症、飢え、社会的疎外感がなくならない
今を生きる殆んどの人は70年前の広島・長崎の体験をして
いません。「平和って何?」と聞き返されることがあります。
戦後生まれの私たちには空気と同じ存在。空気がなくなると
呼吸ができなくなるように、平和でなくなると今までのような生
活ができなくなる。そう思うのは私だけでしょうか・・・?
体験していなくても過去にこのような事実があり情報として量の
違いがあったとしても、「そこに自分がいたとしたら・・・」「自分
に何ができるのか」などと自分の身に置き換えてみて下さい。
そして、広島に来てください。という被爆された方の言葉が
忘れられません。
被爆者のおひとりから原爆(広島はウラン)がどういうものか
知って欲しいと分かりやすく説明された内容をご紹介します。
・爆風:430m/秒  竜巻は60~70m/秒
鉄筋・鉄骨が吹き飛ぶ
・熱戦:3500~4000℃  鉄の融点 1500℃
・放射線量:45万トンシーベルト
爆心地900mで11,440ミリシーベルト
↑ 即死の4倍
安心できる生活1㎜シーベルト/年

「とうろう流し」とは本来、亡くなった方への弔いとして行いますが、
広島で8月6日に行われる「とうろう流し」では平和のメッセージを託
します。日が沈みはじめ、少し涼しくなる頃から始まるので式典以上の
人出でしたが、何より海外の方が多いことに驚きました。単純に
日本独特の行事だからか、それとも平和を願ってなのか・・・後者で
あって欲しい。と思いました。
元安川の原爆ドーム側を上流に向かって歩くと、どの辺からか原爆ドー
ムに沿うように手づくりのキャンドルが並べられていました。広島や修
学旅行で訪れた学生が平和のメッセージを込めて作られたそうです。
時間的に灯りがともされているところは見ることができませんでした。
スタッフの方が写真を見せてくれました。
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平和のメッセージが絵や文字で書かれている

 

 

話が反れましたが「とうろう流し」は元安川の平和記念公園側で、
爆心地近く原爆ドーム側の相生橋際で、そして更に上流の太田川沿
いの基町河川公園で原水爆禁止世界大会のプログラムの「ヒロシマデー灯ろう流し」が開催されました。主催者挨拶、住職のお経のもと川岸でとうろうを流しました。元安川を流れる「とうろう」は辺りが暗くなるにつれ幻想的ともいえるような雰囲気を醸しだしていました。

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1211見入ってしまいますが70年前のその時間のこの川の状況は・・・と思うと被爆された方の無念さと今の平和を重ねることは容易ではありませんでした。川沿いは、まるでお祭りのような賑わいでしたが、原爆ドーム沿いに並んだキャンドルも「とうろう流し」も死没者を想い、これからの平和を願う厳かな時間であって欲しいと思いました。
広島で声をかけられた年配の男性は当時3歳。「当時の記憶は殆んどないけど、物心ついた時は大通りから1本入ると瓦礫の山だった。福島とおなじだよ。」と、最後まで体験談を聞く事ができた3日間でした。
お話を聞けば聞くほど衝撃はありましたが、平和であり続けないといけないと、つくづく思いました。
会員のみなさまへは世界大会へ参加させていただき感謝申し上げます。